けしのはな

沈黙を舌で味わう

痛みと信仰(前編)

ベッドにこぼれる

仄暗い灯りのもとで

わたしはこの自分と自分の運命を

あなたの最上の贈物だと意識するのが心地よいのです 

 《В больнице》  Борис Пастернак

 

 不幸においてこそ神を知り得るとしたのは、哲学者シモーヌ・ヴェイユである。
もちろん、不幸は神の与えた試練などという、自己啓発的な薄っぺらい意味ではない。

 


 ヴェイユは人生を通して、大きな痛みを常に抱えていた。頻発する頭痛、過酷な工場労働に加えて、彼女の深すぎる共感能力にとっては、世の不条理が彼女自身の痛みとして感じられた。
 いつも隣に痛みが存在していた彼女は、痛みやそれを包含する不幸に向き合い続けた。
「不幸はしばらく神を不在にする」、そして「不幸は人々の人格を奪い、彼らを物にしてしまう」。彼女が不幸の本質としてたどり着いたのは、その非人格性、無関心といったものであった。
 しかし彼女はこの不幸にこそ神とその愛を感じ取ったのだ。

 

 


 痛みや不幸と神という問題を考えると、当然ヨブのことを思い出すだろう。義人たるヨブはサタンの関与により、不条理な苦難を受ける。社会的にも金銭的にも、家族にも恵まれていた彼の生活は突如として転落する。見舞いに来た友人らとの議論の中で彼は神への信仰が揺らいでいく。最終的に彼は神との直接的な接合により信仰を回復し、神は彼に財産や寿命を与えた。
 結末はどうであれ、この物語は不条理な痛み、因果応報的原理から逸した世界という、今日的意義を持っていると言える。ヨブが受けた痛みも、サタンの関与という説明があるとはいえ彼からして完全に不合理な物であるし、最終的な改心も全く論理的ではない。


 現在、世界中で自己啓発的な思想やポジティブシンキングなど、ニューエイジの残滓のようなものが蔓延している。全てに因果関係を求め、時には前世やスピリチュアルなものにまで波及しながら、全てを一つの因果体系として整理することによって、人々の心を慰めている。ポジティブシンキングや「引き寄せ」といった思想では、自分の思考が身の回りの諸事(痛みも含む)の原因となるとしている。その結果、当然悪いことが起きたならば、その原因は私たちの思考、さらに前世の業といったものに求められることになる。それで個人的に納得したいのなら別に良いが、この世界の不条理さ、因果関係の虚構性に目を向けていないことは事実だろう。


 私たちがその虚構から抜け出す契機となるものこそ、「痛み」である。
 医療技術が発展し、受ける機会が少なくなったとはいえ、痛みや病気は誰しもが関係するところのものである。ある人が病気になれば、周りの人はあれが悪かった、これが悪かったととやかく言うであろうが、当人にとって病気は完全なる不条理であることが多い(もちろん明確な原因が存在することもあるが)。健康に最大限気をつけて(そして最大限善行をつんで)いたとしても、突如病気にかかることがある。その病気の苦痛の程度が大きければ大きいほど、その苦痛に見合うだけの因果を見つけることは不可能になる。強い痛みは、因果関係の糸を断ち切っていくのである。


 痛みは、人間を荒野に連れ出す。そこにはいかなる「原因」すら存在しない。方角すら、方位磁針が生み出した幻想と知る。慰みになるようなものは何もない。大いなる孤独に立ち尽くすことになるのだ。

 


 後編では、無限の荒野から神を見出すことについて書きたい。