けしのはな

沈黙を舌で味わう

祈り

濡れたアスファルトが乾く

その短い時間に

生まれて死んだ

あなたの祈りは

干からびた向日葵の

追憶の中に眠っている

 

祈りはやがて

土に還り

地球の中心まで落ちていく

 

重力が収斂する地点で

その一点で

あなたの存在のそのすべてが

宇宙のすべてになる

 

あなたの祈りで

すべての真空が

痙攣している!

 

 

明日

震える無から

わたしは生まれる

11/5

コロナになった。


人生で、というか今年に入って二回目だ。


チェコフェスという、会社にとっても大事なイベントの直前で体調を崩し、多少動けるようになったかと思えば、陽性だとわかって家から出られなくなってしまった。


「これから頑張るぞ」と意気込んでいた矢先に、物理的に頑張れない状態になってしまい、会社にも迷惑をかけてしまった。


いくら急激な気温変化があったとはいえ、それはきっかけでしかなく、きっと僕の免疫力はかなり弱っていたのだろう。


体力づくり、体調管理の大切さを痛感する。どこまでいっても身体が資本だ。

 


こうやって強制キャンセルが発生すると、どうしても今までの軌跡や今の自分のいる位置について考えてしまう。


逆にそれを考える暇もないほど、仕事にもそれ以外にもがむしゃらにぶつかっていたのか。


まだ三か月と少し、何か目立つ成長が見えるわけでもなくて、むしろ自分の不出来ばかりが認識されてきた。


でも、こうして立ち止まって見ると、働き始めたころとは全く異なる気持ちで、まったく異なるモチベーションで生きているな、と実感する。

 


働き始めたころは、そもそもバーで働くということの意味も重みも全く分からなかった。


ただ目の前のグラスを洗ったり、お客様とお話したりをしていた。


段々とお酒について学んだり、ハンガリーを含めた中東欧について調べたりしながら、自分が提供できる価値は何だろうと考えてはいたが、その絶対的なモチベーションは迷子だった。


お金のため?もちろんあるが、自分の学歴を武器にすればもっとお金もらえる仕事はあっただろう。


自己表現のため?確かにここでは今までの自分の学習や経験は「話のネタ」として直接的に活きているかもしれないが…。


何を目標にして僕はここで「努力する」必要があるのだろう?と早くも感じてしまっていた。

 


それでも手探りのまま働く中で、目の前のお客さんがお店のお酒やお話を喜んでくれている瞬間一つ一つが輝いて見えるようになった。


そして、自然とその瞬間のために動こうとする自分がいることに気が付いた。

 


もともと誇示できる自分でいることを精神的な自立だと思っていた僕の行動の出発点が、誰かの感情になっていることに、僕は心底驚いた。


気付けば音楽や詩作を含めた創作活動への衝動も和らいだ。

 


目の前のこのお客様に喜んでもらえるために、どのお酒を選ぶべきか?どの言葉を選ぶといいか?


そういったミクロな選択一つ一つが、大きな意味を持つようになった。


抽象的な倫理や、マクロな未来しか描けなかった自分が、目の前のことを見ようとするなんて!

 


正直言って、自分のなりたい未来像も、進むべき道も、むしろ見失ってしまっている。


何か大きな目標がないと、実際に無駄な努力も発生してしまうだろう。


しかし今目の前にある誰かの幸せのために重ねる努力の先に、自分の未来は連なっていると、今は信じていたい。

 


今している仕事の延長線上に自分がいるかもわからないし、まったく違う仕事をしている可能性はかなりあると思っている。


一緒にいたい人との生活のために、仕事面で決断しなきゃいけないときも必ず来る。


選べなかった人生も、きっとこれから増えてくる。

 


この仕事を始めた時、「自分の選択を正解にしてやる」という気概を持っていた。


今もその気持ちは捨てていない。


ただ、自分の行動の開始点が他の誰かになったとき、自分にとってだけの正解が正解ではなくなった。


きっと僕が歩むことになる道は、誰かの望みの集合体が僕を通して指す矢印の先にある。


その誰かは、師匠であり、会社の先輩方であり、お客様であり、家族や友達であり、そして自分が未来を共にしたい方である。

 


今まで意固地になって保持していた僕は解体され、代わりに日常の中に浮かび上がる僕の点描を、今の僕は愛している。

 

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コロナになると、舌にビニールでも張り付いたかのように味が遠くなって、気味が悪かった。


皆様、くれぐれも体調には気を付けてください。

9/27

紙の日記にすることにしたので、しばらくは更新しないことにしました。

 

みんなに見てほしい記録と、自分の為だけに記していたい記憶とがあり、後者をモノとして残したい気持ちになったので。

 

みんなに話したい記憶とか考えは、みんなに会って直接話したいなんて思ったりもするので。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

今の職場に来てもう2ヶ月も過ぎてしまって、慣れるどころか日々知らないことの海の中で窒息しそうでした。

 

でももうさすがに新人だから…なんて言える立場じゃなくなってきた。

 

有限な時間を最大限活かして、いろんなことを勉強して吸収しないといけないと思う。

 

24歳は社会的には若いのかもしれないけど、だからこそ今一番がむしゃらに努力してないと、今のまま色んなものに手を出して路頭に迷うおじさんになってしまう。

 

頑張らないと。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

幸せという概念を分解して、無化してしまう思考の癖が染み付いていました。

 

その幸せが自己満足なのか、ただ本能的なものなのか、厭世的なものなのか…そしてそれぞれは「正しいのか?」なんて考えたり。

 

そうすると幸せは無化し、目指すべき未来から消えてしまう。

 

でも、もっと素朴に「幸せになりたい」みたいな気持ちを素直に受け入れてみたい。

 

自分の幸せなんてもう見失ったけど、きっと僕は好きな人が隣で心の底から平穏な気持ちでいてくれるならそれでいいんだと思う。

 

それを幸せと名付ける勇気はまだないけど。

9/26

わたしが誰かのことを知ろうとしても、すべてを知ることなんてできない。

 

わたしたちは、コミュニケーションを取る人の数の面を持つ、不思議な多面体。 

 

同時空間にて、私の肉体の位置から他の誰かが全く同じ月を見ることはできない。

 

月は地球上の観測者分の面をもつ。

 

 

無数の面の総体として相手を認識し、愛したいのにも関わらず、わたしはその人がわたしに見せる平面しか愛することができない。

 

それでも、わたしが知らないその他の面は、その存在の香りを放つ。

 

その香りは、ときにわたしをどこまでも苦しめる。

 

 

 

わたしの存在が、誰かにとって嘘になりませんように。

 

9/24

昨日のお散歩の備忘録です。

 

彼岸花を見に、小石川植物園に行きました。

 


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雨上がり、彼岸花には水滴がついていました。

 

葉のない真っ直ぐな茎の上に燃える灯火ような花が咲いているのを見ると、なんだか此岸ではないところへ導かれている気分になりました。

 


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すこし視界が開け、曇り空の下たくさんの彼岸花が咲いている情景は、まるで時間の流れからはぐれてしまったようでした。

 



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高いイチョウの樹。黄色になる前の、緑の葉っぱのイチョウが結構好きです。

 


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雨上がりは水滴が美しい。一眼レフとか持ってたらもっと素敵な写真が撮れたかな。

 


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奥にある日本庭園も、とても素敵でした。

 

家もそこまで遠くないので、定期的に散策に来ようかな。

 

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小石川植物園を出て、ソーニヤというロシア料理のお店へ。

 


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ボルシチライ麦パン、ピロシキなどをいただきました。

 

ボルシチはロシア留学のとき毎日食べていたので、色々な思い出と繋がっています。

 

家でもまた作ろうかな。

 

ホフロマ塗りのカトラリーやサモワールがあって、それもまたノスタルジックに思えました。

 

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何故か川を見たくなったので荒川へ。


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鬼ころし飲んでたけど、歩き疲れたせいか変にアルコール回ってしまったのと、風が強く寒かったので、ブルブル震えてました。

 

でも曇天の荒川で救われる精神もあるので。

 

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歌詞って不思議で、その曲の全体のストーリーを掴めていない状態でも、我々の胸に突き刺さるような鋭利な言葉が潜んでいたりする。

 

そういったフレーズは、もはや歌詞を意識して聞いていないときすら突然我々の意識に流れ込んできたりするものだ。

 

KIRINJIの愛のCodaという曲には、そんな鋭いガラス片のような言葉が散りばめられている。

 

「帰りのチケットを破る意気地も

愛に生きる勇気もない」

 

 

 

 

9/22

「オタク」という言葉について。

 

わたしは、自分がどうしようもないオタクだと感じると同時に、自分は絶対オタクではいられない、という相反した実感がある。

 

 

わたしは自分の好奇心に忠実に生きているし、興味あることを深掘りしてしまう。

 

そういう意味では「オタク気質」であると言えるだろう。

 

実際今まで色々なコンテンツに手を出し、深くのめり込んだ。

 

小学2年生で国旗にハマって全部覚えてみたり、鳥に興味を持って野鳥を見に行ったり。

 

また、サッカーについてはその歴史から戦術まで幅広く調べていた。

 

最近でもアイドルコンテンツとかVtuberとか、音楽とかの沼にズブズブと浸かっていたりする。

 

「オタク」という言葉が、ただその人の特性によるアイデンティティを示すならば、わたしはオタクだろう。

 

 

しかし「オタク」という言葉は本来二人称であるし、最近だと何かしら好きな対象を共有するコミュニティに属することも「オタク」の必要条件になりつつあるような気がする。

 

もちろんその文化史的な背景を具に語ることは不可能だが、インターネットの発展に伴い世界中のオタクが繋がり合うようになったのは事実だろう。

 

わたしはそういった「オタク・コミュニティ」に属すことが苦手だ。

 

もちろん、好きな対象を共有できる相手がいることはとても喜ばしいことだ。

 

でも、いつも何かのコミュニティに属した途端に、素直にその対象のコンテンツを楽しめなくなることがある。

 

どんなオタクコミュニティであれ、全員がその対象に同じ大きさのベクトルで向き合っているわけでもないし、それが人間関係である以上コミュニティのメンバー自体との距離感の調整など、様々考えなければいけないことが多くなる。

 

コミュニティに属したことによって得られる楽しみも当然感じたことがあるし、情報の共有やグッズのやりとりなども実際たくさんあった。

 

でもむしろ、それ自体が対象への熱意に対してノイズになってしまうことがある。

 

 

そういったことを考えると、ただひとりでに誰も知らないことを追求して、それを発信して面白がってもらうくらいが一番心地よいのかもしれない。

 

でも、もしかしてこれ、わたしがただの社会性のないオタクってことでは…!?

 

 

そうです。

 

 

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いま自分が推しているアイドルに関しても、推してて楽しいし他のオタクのみなさんもとてもいい人なのだけれど、なんだか複雑な気持ちを抱きつつある自分がいる。

 

推しがずっと魅力的でい続けてくれるからこそ推していられるのだが、どこかで現場にぱったりと行かなくなったりしそうだなあという予感もしている。

 

推しがいる生活は精神が潤うが、歪んだ自意識が自分を攻撃しだす時期が必ず来てしまうので、今の推し活を最後にしたいなあと思ったり。

 

誰にも迷惑をかけないように、一段落したら、一人バイカル湖のほとりで静かに暮らしたいな。

9/21

特定の過去に執着することによって、わたしは何を守ってきたのだろう。

 

過去を組み換え、時には塗り直しながら大きな建造物を作り上げる。

 

その中に立てこもることで、現在や未来から目を逸らす。

 

その建造物は美しい記憶だけで構成されているわけではない。

 

むしろ、自らの未熟さや無責任さが殆どかもしれない。

 

それら全てを、一つの名前に結びつけることで、呪いとなる。

 

たとえそれが可憐な花の名前だとしても!

 

 

✚✚✚✚✚✚✚✚✚✚

 

 

記憶とは、どんなきっかけで蘇るかわからないものだ!

 

自分を守るために作り出した過去は、呪いとなり、いつでもわたしを飲み込もうと後ろに控えている。

 

また最初から、やり直し!