けしのはな

沈黙を舌で味わう

9/22

「オタク」という言葉について。

 

わたしは、自分がどうしようもないオタクだと感じると同時に、自分は絶対オタクではいられない、という相反した実感がある。

 

 

わたしは自分の好奇心に忠実に生きているし、興味あることを深掘りしてしまう。

 

そういう意味では「オタク気質」であると言えるだろう。

 

実際今まで色々なコンテンツに手を出し、深くのめり込んだ。

 

小学2年生で国旗にハマって全部覚えてみたり、鳥に興味を持って野鳥を見に行ったり。

 

また、サッカーについてはその歴史から戦術まで幅広く調べていた。

 

最近でもアイドルコンテンツとかVtuberとか、音楽とかの沼にズブズブと浸かっていたりする。

 

「オタク」という言葉が、ただその人の特性によるアイデンティティを示すならば、わたしはオタクだろう。

 

 

しかし「オタク」という言葉は本来二人称であるし、最近だと何かしら好きな対象を共有するコミュニティに属することも「オタク」の必要条件になりつつあるような気がする。

 

もちろんその文化史的な背景を具に語ることは不可能だが、インターネットの発展に伴い世界中のオタクが繋がり合うようになったのは事実だろう。

 

わたしはそういった「オタク・コミュニティ」に属すことが苦手だ。

 

もちろん、好きな対象を共有できる相手がいることはとても喜ばしいことだ。

 

でも、いつも何かのコミュニティに属した途端に、素直にその対象のコンテンツを楽しめなくなることがある。

 

どんなオタクコミュニティであれ、全員がその対象に同じ大きさのベクトルで向き合っているわけでもないし、それが人間関係である以上コミュニティのメンバー自体との距離感の調整など、様々考えなければいけないことが多くなる。

 

コミュニティに属したことによって得られる楽しみも当然感じたことがあるし、情報の共有やグッズのやりとりなども実際たくさんあった。

 

でもむしろ、それ自体が対象への熱意に対してノイズになってしまうことがある。

 

 

そういったことを考えると、ただひとりでに誰も知らないことを追求して、それを発信して面白がってもらうくらいが一番心地よいのかもしれない。

 

でも、もしかしてこれ、わたしがただの社会性のないオタクってことでは…!?

 

 

そうです。

 

 

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いま自分が推しているアイドルに関しても、推してて楽しいし他のオタクのみなさんもとてもいい人なのだけれど、なんだか複雑な気持ちを抱きつつある自分がいる。

 

推しがずっと魅力的でい続けてくれるからこそ推していられるのだが、どこかで現場にぱったりと行かなくなったりしそうだなあという予感もしている。

 

推しがいる生活は精神が潤うが、歪んだ自意識が自分を攻撃しだす時期が必ず来てしまうので、今の推し活を最後にしたいなあと思ったり。

 

誰にも迷惑をかけないように、一段落したら、一人バイカル湖のほとりで静かに暮らしたいな。