けしのはな

沈黙を舌で味わう

生まれてくることについて

 僕は恵まれている。
 多少複雑な家庭環境であったとはいえ、今まで不自由のない暮らしをしてきたし、友達にも恵まれている、と思う。客観的に見れば学歴も申し分ないであろうし、サークルの活動も充実している。これといった不満は一切ない。目先の就職や卒業のことを考えれば気はめげるが、絶望するほどでもない。死は怖い。しかし生は楽しい。この世界、ないし自分の生を憎悪する理由がないのだ。
しかしたまに考えるのだ。「僕は本当に生まれてきてよかったのか?」と。

 


 当たり前のことだが、僕は生まれてきたかったから生まれてきたわけでは決してない。気付けば、この世界に存在していた。悪い言い方をすれば、僕は生まれるか否かを決める権利を行使しないまま、半ば強制的に存在させられている、ということになる。
ショーペンハウアー風に)この世界が僕にとって醜いものであれば、またはヨブのよう
に不条理な苦悩を抱えているのであれば、「生まれなければよかった」という考えが頭をかすめることは当然だろう(ヨブ自身がそう言っているように)。しかし恵まれた 21 歳の僕の頭に、「生まれてきてよかったのか」という葛藤が実際に生まれたのである。それが何故かはわからない。

 


 これはそのまま「人間は生まれるべきか否か」という問いにつながる。これはまさしく巷で言う「反出生主義」の議論に等しい。僕は完全に反出生主義者と自分を言うことはできないが、「人間は必ず生まれるべきだ」という結論を出せないままにいる。反出生主義について考える哲学者や倫理学者は多数いるだろうし、既に様々な論点が提出されていることであろうが、ここでは自分の実感として思うことを書いていきたい。それらは、感覚的な意見であり、必ずしも論理的なものでないであろうが。

 


 よく環境問題の文脈などで「未来世代」という言葉が聞かれる。一般的に言って、経済というシステムは、自分の富を最大化するという個々の目的意識によってダイナミズムを得ていると考えている。しかし、我々が我々の限られた人生が豊かになるようにのみ行動しているとした場合、富のもととなる資源は我々「現在世代」に占有されることによって、次に生まれてくる世代の人々の分は残らないこととなる。そもそも世界は僕の生きている間しか存在しないと考えて自分の利益追求に邁進するなら別だが、倫理的な問題として我々は未来世代に資源を残すことを検討する。なぜなら、我々現代世代が富を得る権利があるなら、同様に未来世代にも同様な権利が認められるべきだからである。


 未来世代は我々と同様に権利を持っている——彼らだってものを食べるし、寝る場所は
必要だし、人生を楽しむことができる。未来世代は選ぶことができるであろう。では、生まれるか否かも選ぶことができるのではないか?——そう思えてしまうのである。生まれてくる世界は醜いものかもしれない。親はひどい人かもしれないし、そもそも存在しないかもしれない。生まれてから死ぬまでずっと貧しいかもしれない。温暖化なりが進んで、とても住めるような環境じゃなくなっているかもしれない。様々な可能性が考えられるこの世界になぜ強制的に生み「投げ」られねばならないのか?生まれてこないという選択肢を選ぶ権利があるのではないか?


 当然未来世代は口を持たない。自分の権利を現在世代に主張することは出来ない。親が未来世代に、生まれてきたいのかと尋ねることは出来ない。しかし我々が未来世代のために倫理的行動をするのなら、この「生まれてくるか否かを選ぶ権利」も考慮されてもいいのではないか?「選択的出生される権利」を尊重されるべきではないか?

 


 再びいうが、僕は反出生主義者というわけではない。生まれてこない権利と同様に生まれてくる権利も尊重されるべきであろうし、世界に産み落とされることが一概に悪であるとは結論づけられないからだ。そもそも世界の善し悪しなど相対的なものでしかなく、実際にあるのは物差しもコンパスもない荒野としての世界である。そもそも世界が存在しているかもわからない。そんな中で生まれてくることは「悪いことだ」ということは出来ない。それでも、いや、だからこそ、生まれてこない可能性を考えてみてもいいのでは、と思うわけである。

 

 


 こういった思考に僕をいざなう理由はいくつかあるだろうが、実際に僕が「生まれなかったかもしれない」というのも一つの理由だ。この世界に存在できなかった姉が生まれていれば僕はいなかったであろう。僕の生の偶然性が、僕自身にこう問うのである——「お前は生まれてくるべきだったのか」と。