けしのはな

沈黙を舌で味わう

トリオ、

 ジャズにおいて「トリオ」という編成はなにか特別なものに感じる。ジャズの歴史を彩ってきた「トリオ」は当然枚挙に暇がない。

 

 

 3/30,梅田のあたりのbamboo clubという古民家風のお店で、佐藤隼人トリオでライブをした。ピアノは関学、ドラムは大阪市大で、僕が知っている限り自分の代では確実に最もうまいピアニスト、ドラマーである。そこにベーシストとして参加しているのだから恐れ多いものだ。

 このトリオでは、僕はただベーシストでいてはならない。僕はベーシストよりも僕でなければならない。楽器はもはや媒体にしか過ぎず、3人のアイデアや考えがぶつかり融合していく過程をひとつの芸術としてみてくれている人に届ける…ものすごく難しくて、ありえないほどエキサイティングである。

 最も思い入れがあり、長くやっているメンバーだから、いつもライブやセッションをするのは楽しみだし、やれば必ず楽しく、良い演奏ができるという安心感もあった。

 

 しかしこの日は違った…

 

 ライブをしていても楽しくない、アイデアが合致する感覚がない、そもそもアイデアを出しあう段階まで行っていない…何故だろう?このバンドでワンマンライブをするのは初めてだ、たしかに緊張している、しかしここまでになるか?また、今日は初めてアップライトベースでこのトリオに参加している、今思えば、ウッドベースどの音の立ち上がり等の点で大きな差異がある、そんな状態でやれば合わない場面が出てくるのも当然…しかしここまで修正できないものか…?

 

 お客さんにはポジティブな言葉を投げてもらい救われた気持ちもしたが、依然3人の心にはわだかまりが残ることになる。僕らははもっとやれるはずだと…

 

 トリオの、特にこのような個性をぶつけ合うトリオにおいて「良い演奏(または納得できる演奏)」というものは、それぞれの演奏技術が高ければよい、キメが合えばよい、それぞれのソロが良ければよい……そう簡単なものではないのだ。前に述べたとおり、3人のアイデアが混ざり合い、様々に色彩を変えながらそれ自体で一つの世界を作り出す、そこまでしてからやっとそのトリオを判断する段階まで来るのだ。そして、その世界が美しいかでその演奏の良し悪しがはじめて判断しうる。

 エヴァンストリオやキースのトリオ、OPのトリオ…ジャズの歴史に燦々と輝くジャズ・トリオは、それぞれが3人で一つの世界を創造し、その世界の完成度、美しさによりその名を刻んでいる。ただエヴァンスが聴くことができれば良いのではない、聴く者はエヴァンスとラファロ、モチアンのインタープレイの中で構築された世界に誘われ、その景色や色彩の変化に心を動かされるのだ。

 もちろんトリオにおけるそれぞれの力関係は平等というわけでなく、例えばキースのスタンダーズトリオのようにピアニストがドミナントであることは多い。しかしその力関係も、まるである三角形がその三角形性を保ったままその形を流動的に変化させるように、一秒ごとに変わっていく…そしてそれぞれの力という概念すらなくなり、一つの創造のための強力な力が3人の間に生まれる…

 

 このライブは反面教師的に、これらのことを僕に痛感させた。スタート地点にすら立ててない演奏をしてしまったのかもしれない…それがこの悔しさの一番の理由だろう。いつか、必ずやこのトリオで、一つの素晴らしい雄大な世界を創り上げ、多くの人をその中に誘い、魅了したいのだ。そしてそれは可能だという自信が、何故かは分からないが強く存在している。それが僕(アマチュア)ジャズマンとしての一番の目標でもあり、その過程こそが現在進行形の僕の青春である。