けしのはな

沈黙を舌で味わう

ひとはかわるらしい

10月20日は、坂口安吾の誕生日だそうだ。「堕落論」を最初に読んだ頃、僕は本質主義者だったからかその内容にひどく反感を覚えたものだ。人間の本性は堕落ではない、僕はそう思い込んでいたし、そう思っていたかったのだろう。きっと半年前でも同じ感想を持ったに違いない。


書かれた文字というのは、焚書や黒塗りを除けば不変の記号として残っていく。故にそれは受容体としての我々の変容のものさしになる。人は容易に変わる。付き合う人々や我々を囲む環境、それに薬や化学物質の影響なんかで我々はいとも簡単に変わってしまう。変わらないものに相対すると、自らその変化に驚かされるものである。


堕落論」を何年かぶりに読んだ。僕は自分が変わったことを知った。理想を掲げることで現実から目を逸らしていた自分はもうそこにはいなかった。神を疑うことばかり恐れていた自分は。


今でもその内容に完全に同意するわけではないが、しかし以前のような拒絶感はない。天啓の光のような感銘を受けるわけでは決してないが、そこに人間への暖かさや優しさのようなものを感じ取った。安吾は僕が思っていたより大人だ、と感じた。


安吾は理想通りにいかない戦後の現実を直視して、それでも愛そうとしているように思えた。きっと安吾自身、堕落を非常に恐れていた人間なのではないかと思う。しかし彼は戦時中の「心地良さ」と戦後の堕落から目を逸らさない勇気があったのだろう。その根底に、人間への愛を感じられるのだ。彼のアイロニカルな口調も、非常に愛しく思える。


この短い文章から、彼の政治的思想やらを明らかにできるほど僕は賢くないし、それになんだか、そうすることでこの文章の暖かさは損なわれる気がする。仮にも文学研究をしている身としては良くないのかもしれないが、ただ安吾の人間愛にほっこりすることしか今の僕には出来ない。前述のように、また僕も変わる。その時には何か新しい読みをするのかもしれない。

 

 


安吾を大人に思えるように、僕自身少しだけ大人になったのかもしれない。今は神を疑うことすら怖くない。なぜなら、神は懐疑以前に存在してくれていると、僕は知っているからだ。