けしのはな

沈黙を舌で味わう

メタファーの螺旋階段を上って

卒業論文の進捗が芳しくない頃、頻繁に散歩をしていた。これはその頃の話。


僕は糺の森を歩いていた。徹夜明けだったのか、陽が昇って間もない時間帯だったことを覚えている。
秋と冬の境に伸びる真っ直ぐな参道を歩く。赤く染まったギザギザの梢が淡い空色を切り取っている。


啓示は、その時に顕現した。それは、言葉という形をもって僕の頭の中に現れた。


「君の人生は、全てメタファーだよ」


それは文字でも音でもなく、なにか「暖かさ」のようなものとして感じられた。

 


「人生がメタファーである」、そのことが何を意味するのかは全く分からないが、まるで何か正解に指を触れたような、そんな瞬間だった。
人生がメタファーであること、それ自体がメタファーであり、無限に重なる象徴界の層が認識され、それと同時にそのすべての層を突破するような、逆説的感情に捉われた。
いわばそれはどこまでも続く螺旋階段をのぼりながら、且つその階段の全体像を把握しているようなものだった。


もちろんこの「啓示」はなんら具体的なものではないし、生きるうえでの指針に直接繋がったとか、まして卒業論文のヒントになったなどということは決してなかった。ただ、無限を包摂する無限という構造的な無限のイメージに抱きしめられるような経験というだけであった。

 


1月の初頭、晴れて僕は卒業論文を提出した。レフ・シェストフというロシアの思想家についての論文だった。
シェストフの思想は哲学史上、実存主義の先駆として紹介されることが多いが、例えば狭義に実存主義とされるサルトルの思想などとは直接的関係も無く、相違も大きいと言える。
シェストフは、いわば「何もない荒野に立つこと」をその思想の中心とした。しかし、それは新たな倫理体系の始まりでも、生の意味を「創り上げる」起点でもない。


何故なら彼には「神」がいたからである。


僕の卒業論文の直接的な対象はこの「神」であった。


シェストフは、理性や道徳という「地盤」を失ったとき初めて神と出会うことができて、そこにこそ「信仰」が生まれるとした。
「信仰」がどんなものであってどのように展開されたか、ということについては卒業論文と内容的に重なるので繰り返さないが、簡単にいえば「理性の光も届かない暗闇を突き進むこと」を信仰と呼んだ。
僕はこの概念を、ドイツの神学者ティリッヒの信仰観と比較し、論じた。

 


僕はこの卒業論文において、「信仰すること」とはなんなのか、という問題に向き合い続けた。答えが出たわけではないが、少し鮮明にはなったので、それをここで書きたいと思う


シェストフは、ニーチェの読書体験がその思想の原点にある。特にお気に入りの概念こそ「善悪の彼岸」である。
彼が理性や道徳を批判するのは、それらが自ら「正しいこと」「善いこと」を設定するからであり、本当の事なんてものは絶対に理性が勝手にその価値や意味を判断できるものではないと気付いたからであった。
自らのことをあまり語らないシェストフに、具体的にどのような「事件」があったかは分からない。(それはキルケゴールのような「大地震」のようなものかもしれないし、ルターのような「落雷」の経験のようなものかもしれない!)シェストフにとって世界も神も、理性の埒外にあるのだ。
もはやそこに生きる意味なんてものを見出すことができるはずがない。しかしシェストフはその境地に陥ってからこそ、生きることが始まるのだと言う。


シェストフはニヒリストではない。彼は意味が喪失した人生をなおも生きようとする。シェストフは不可知論者ではない。それでも神はいる、それでも真実はあるのだという希望を絶対に捨てていない。
この希望を持ち続けることが彼にとっての「信仰」だったのだろう。

 


彼はあくまでキリスト教思想史的題材を用いて論じていたが、その思想が完全にキリスト教的であるというわけではない。ただ彼の場合は、自分が生きることと不条理な世界との関係を問い続けた、といえる。
「信仰する」とは、その意味において「対象」を必要とする概念であるし、多くの言語で他動詞的なものだ。しかし、シェストフにとって「信仰する」ことは対象としての神をそこまで求めていないように思えた。極端に言えば、神がいなくとも、信仰が成り立つ、ということだ。


僕が参照したティリッヒも、「神」の概念が比較的希薄だと言える。彼は神を「存在を存在せしめる存在の力」と表しており、伝統的キリスト教が保持していた人格的神といった概念を超越している。
彼の著書「存在の勇気」においてはもはやイエス・キリストの存在を欠いている様ですらある。


シェストフにせよティリッヒにせよ、人間の実存的状況から思索を展開した者たちが、それに対してキリスト教的に「応答する」ことに成功したとは言えない。彼らは伝統的キリスト教の立場からも哲学的立場からも多くの批判を受け取っていることも事実である。彼らの「信仰」はキリスト教の範囲を超えているようだし、しかし哲学的な精緻さを欠いている。ただ、彼らは「生きること」に真剣に向き合い、その不安も不条理も乗り越えようとしたのだ。

 


この地球上には数えきれないほどの命が生きてきたし、生きている。しかし、生きることの絶対的意味が共有されているわけではない。その中には生きる意味を喪失して彷徨う者、そして自ら命を絶つ者もいる。人生における様々な不条理は我々から生きることの合理的意味を剝奪する。生きることの意味は善悪の彼岸にあると気付く。いや、意味がある「彼岸」なんて存在していないのかもしれない。それでも、こんなにも多くのものが生きている。それが積極的であるとしても、惰性であるとしても。
生きる意味を喪失した、いや生きることの意味がないことを発見した人々にとって、選択肢は二つだけ。生きる意味がないのならその人生に終止符を打つのか、意味がないにもかかわらず人生をもう少し続けるのか。我々の多くはこの問いを先延ばしにしながら、ただ何となくそこに存在している。


我々は、生きることを、意味がない「にもかかわらず」選択することができるだろうか?


ティリッヒは実存的不安を受け入れ、「それでも」生きることを「勇気」と呼んだ。
シェストフは、生きることは総じて「逆説的」であるとした。


絶対的な意味を人生に求めることはできない。かといってなにか消極的で相対的な意味に縋り生きることにも空虚が付随するだろう。


僕らが積極的にできることは「勇気」をもって、不条理なものであっても生きることを「信じる」ことだけである。生きることを、選択することだけである。
それは傍から見れば、ばかばかしいことかもしれない。それは迷信的であると評価を下されるかもしれない。
しかし多くの宗教が信者を獲得しているのは、空虚や無意味を乗り越える意味を与えてくれるからである。それが科学的でなくとも、生きることに積極的意味を付する。様々な宗教的象徴、宗教的語彙で我々の生きる理由を説明している。
それらはすべて、我々に生きるという選択肢を選ばしめる。すぐ後ろに潜むぽっかりと空いた空虚と無意味の穴を逆説的意味で埋め立てている。


信仰の対象は宗教によって当然全く違うが、その本質的意味は生の積極的選択であることに変わりがない。シェストフもティリッヒもそのことに気付いていたのだ。

 


僕は現時点で「信仰」を「毎秒、その瞬間ごとに、不条理にもかかわらず生きることを選択し、それに賭けること」であると考えている。
殊に日本では宗教といった言葉自身が迷信的で避けられやすいものだが、その本質は無意味と空虚を勇気をもって乗り越えることに他ならないのでないか、と感じている。


僕は信仰している。僕は祈る。ひどい頭痛が僕を襲っても、誰かの苦しみを肩代わりできなくても、愛する人が僕を愛さなくても、勇気をもって生きることをその都度選択していきたいのだ。
僕が存在することに意味がないということが如実に分かったとしても、「神」が僕を存在せしめている限り...。

 

 

 


そして、ふと、「人生はメタファーである」という言葉が再び僕の頭の中に現れた。僕らはメタファーの無限の層から抜け出すことはできない。それこそが実存的状況である。しかし、メタファーはきっと何かに、メタファーでない何かにたどり着くのだろう。僕はそれを信じている。その限りにおいて、僕は比喩を比喩として繰り返すことを選択し続けるだろう…。