消えてしまえたら、いいのに
美味しい曖昧というアイドルを見てもうすぐ半年が過ぎようとしている。
つまり、初めてアイドルのライブに行ってから、半年が経つのだ。
無味乾燥な日々は潤い、流れるスピードも光の如く加速した。
それだけライブが楽しくて、ライブのある週末を待っている間すら愛おしく感じたものだ。
BGMが大きくなり、SEが流れる瞬間。
推しが音楽そのものになる瞬間。
特典会の最後尾札を受け取る瞬間。
ツーショかソロか伝える瞬間。
そのどれもがいつも同じようで、いつも緊張し、そしていつも楽しい。
他者の存在が自分にとって絶対的になるほど、自我は殻を破り外へと流出する。
自分は、今まで自分だと思っていた枠の中から、愛する他者の元へ惹きつけられていく。
無我夢中とはまさにそういった状態のことを言うのだろう。
この半年間、ただひたすらに楽しかった。
ひたすらに夢中になって、推しのいるところへ目を、足を運んだ。
だんだんと、苦しみが芽を出していることに気づかぬまま。
アイドル現場では、アイドル本人とのコミュニケーションが発生する。
推しは自分を認知してくれたり、覚えていてくれたりもする。
相手は「自分」とコミュニケーションを図ってくれるので、自分は多少なりとも「自分」である必要が生まれる。
目の前の推しに流出した自我が逆流し、自分という器に戻っていく。
推しは優しいので、僕を覚えてくれるし、肯定までしてくれる。
現場に通ううちに、僕は僕に戻ってきてしまっている。
つまり、自我を抱えたまま推しを愛してしまっている。
何も、悪いことではないのかもしれない。
しかし、誰かを自我ゆえに傷つけた記憶はいつだって蘇る。
自分の理想を、自分の欲望を相手に求めてしまい、相手の気持ちとは裏腹な行動を強いてしまったことがある。
それから僕は対人で自分をさらけ出すことが下手になってしまった。
下手になったというより、怖くなってしまった。
対人コミュニケーションが生まれる、アイドル現場それ自体が、本当は向いていないのかもしれない。
僕が完全に相手に理想を押し付けてしまうようになったら、それに気づいたら、僕はいけなくなってしまう気がする。
それでも、独りよがりになっていた僕の殻を破壊した推しに感謝も恩返しもしきれてない。
僕の自我なんて、欲望なんて、消えてしまったらいいのに。
ただ、推しが幸せでいられることをかすかに感じていられるなら、それでいいはずなのに。
僕の推しへの愛が、自己愛にすり替わる前に、僕は消えてしまいたい。
大好きな人を苦しめる前に。
なんて書いて、自分の弱さに驚いてしまう。
きっとこの発想自体が、自己保身で自己愛なんだろう。
愛することには技術も必要だ。
推しが幸せになるために、僕がもらった幸せへの恩返しをするために、何ができるだろうか?
そのための努力を惜しんではいけないし、逃げてはいけない。
いつか、僕が僕として、推しの前に立って、心の底から愛を伝えられるように。