けしのはな

沈黙を舌で味わう

9/5 日記

「身の程を知る」という言葉に、僕はどれだけ縛られていただろうか?

それと同時に、どれだけ救われてきただろうか?

 

必死に時間の流れに食いついていきながら、過ぎていく日々が零れ落ちていくことに対しても焦りを感じる。

 

自分が驕り高ぶることができない環境、実力や才能が明らかに足りていない環境に身を置けることは、幸せなこと。

 

今、自分を一度解体しきって、今後はそれを再構築していくことが必要になっていく。

 

解体されてばらばらになった自分の様々な要素の中に、非常におぞましいものもたくさんある。

 

そして、それらを手放すこと(=再構築する上でその要素を放棄すること)に未だに抵抗がある自分がいる。

 

また、今まで蓋をしていた色々な感情が溢れやすくなってきてもいる。

 

自分が誰かと対等になれないという強い意識が、「相手に自分を介して価値を提供する」という今の仕事の中心的なイデーによって批判される。

 

その中で、完全に自分が諦め、いや忌避してきた対人間の感情を思い出しつつあるのだ。

 

そこには一種のノスタルジーも付随してしまい、甘美な苦しみとして腹の底から上がってくる。

 

いつか自分という価値を提供できる日が来るのは喜ばしいことかもしれないが、同時に「誰かに期待する」感情まで戻ってくるのは、本当に苦しいことだ。