けしのはな

沈黙を舌で味わう

9/20

色彩豊かな過去も、光の届かぬ未来も、それぞれが強い引力を持っている。

 

どちらに引き寄せられてしまうかというのは人によって異なる上に、その引力の強さも変わってくる。

 

過去に引き寄せられたとしても、それが甘美な故郷としてわたしを呼ぶのか、それとも傷口としてわたしを飲み込むのかによってまた分かれるだろう。

 

わたしはこのごろ、未来からの引力を強く感じる。

 

自分の未来の何処かに控える「死」は、スタート地点のみが決まっている半直線だ。

 

死の向こうに無限に広がる永遠が、わたしの生にまで逆流しないかというイメージに取り憑かれている。

 

しかし、永遠はわたしが生まれる前にも広がっている。

 

無限と無限に挟まれた特異なわたしの生がなにか意味を持ちうるなら、一体どんなものなのだろう?

 

そもそもそれは誰にとっての「意味」なのか?

 

 

時間軸の中に引き伸ばされたわたしの自意識に、「現在」という重みに耐えうる強度はない。

 

未来や過去に腕を引かれても動じない、「体幹」が必要だ。

 

 

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好きな作曲家は誰?と聞かれたら、必ずジョビンの名前を挙げるだろう。

 

彼こそが、ブラジルのサウダージをわたし達に届けてくれた。

 

その中でも大好きな曲がLuizaとEu sei que von te amorという曲。

 

特に後者は、追憶と死の香りを漂わす穏やかな曲だが、歌詞は「あなたを愛してしまう」という内容。

 

どんなに抗ってみても、結局引き寄せられてしまう引力を持っている人に、人生の中で一人くらいは出会うのかもしれない。

 

9/17

気温は高いが、夏はもう空っぽになってしまった気がする。

 

残った薄い殻が、段々と崩れていく過程を秋と呼ぶのかもしれない。

 

もしくは、「秋」が充満するのだろうか?

 

ともかくも、今はなんだか夏でも秋でもない何かだと感じてしまう。

 

この時間になにか名前をつけたのなら、今もその名前の季節で充満することになるのだろうか?

 

空っぽに名前をつければ、それは空っぽではなくなるのか?

 

 

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僕の一番好きなジャズスタンダードの一つで、「惚れっぽい」なんて邦題がある。

惚れっぽい人ほど心の中は空っぽで、流入した誰かのことを「全て」だと思ってしまうのかもしれない。

 

 

9/10 日記

体調を崩し、自らの力で身体をコントロールできなくなった。

 

すると途端に、身体は「世界の側」へ遠のいてしまう。

 

そもそも身体は「世界」に属しているというのに、私は何を思い上がっていたのだろうか?

 

病とは、「私」という不自然な自意識から、身体を剥がす現象なのかもしれない。

 

言い換えれば、「私」自体が「病」であり、その病に対する治癒として身体の不調が訪れるのかもしれない。

 

「私」という自意識だけが、この世界にとって必要ないものなのだろう。

 

「存在する私」という私の罪は、この世界を淀ませている。

 

 

しかし、私の自意識もまた夢見ている。

 

どこまでも透き通る、美しい「私」を…。

 

 

 

9/5 日記

「身の程を知る」という言葉に、僕はどれだけ縛られていただろうか?

それと同時に、どれだけ救われてきただろうか?

 

必死に時間の流れに食いついていきながら、過ぎていく日々が零れ落ちていくことに対しても焦りを感じる。

 

自分が驕り高ぶることができない環境、実力や才能が明らかに足りていない環境に身を置けることは、幸せなこと。

 

今、自分を一度解体しきって、今後はそれを再構築していくことが必要になっていく。

 

解体されてばらばらになった自分の様々な要素の中に、非常におぞましいものもたくさんある。

 

そして、それらを手放すこと(=再構築する上でその要素を放棄すること)に未だに抵抗がある自分がいる。

 

また、今まで蓋をしていた色々な感情が溢れやすくなってきてもいる。

 

自分が誰かと対等になれないという強い意識が、「相手に自分を介して価値を提供する」という今の仕事の中心的なイデーによって批判される。

 

その中で、完全に自分が諦め、いや忌避してきた対人間の感情を思い出しつつあるのだ。

 

そこには一種のノスタルジーも付随してしまい、甘美な苦しみとして腹の底から上がってくる。

 

いつか自分という価値を提供できる日が来るのは喜ばしいことかもしれないが、同時に「誰かに期待する」感情まで戻ってくるのは、本当に苦しいことだ。

世界のなかに融け出して

1年前の自分が今の自分を見たら、どう思うだろうか?

 

まさかバーで働いてるとはつゆも思わないだろうし、そもそも「忙しくも充実した日々」を送っているなんて、想像つかなかっただろう。

 

1年前の自分といえば、自由に閉じ籠もり肥大化したエゴを持ったまま社会に出て、発散できていなかったフラストレーションが爆発してしまっていた頃だった。

 

「無責任」に根を張っていたエゴは、社会という土壌に馴染めるはずもなく、腐っていた。

 

次第に強固になっていく心の外殻が、その発酵を促進させていた。

 

 

推しや今の仕事に出会って、その殻に風穴が開いた。

 

腐臭が抜けるまでには時間がかかったが、僕は今、オープンに世界に精神を曝している。

 

僕が僕を定義してしまうことを、世界に阻まれ続けながら生きている。

 

 

僕の人生は僕だけのものではなくなったし、誰かの人生も同時に僕の人生になっている。

 

僕は世界のなかに融け出している。

 

 

1年前の自分が今の自分を想像できなかったように、1年後の自分は何をしているだろう?

 

何もわからないけれど、まだ世界と混ざり合っていますように。

 

そして、僕の外殻に風穴を開けてくれたあの人を、変わらず愛せていますように。

愛することについてのメモ書き

誰かをほんとうに愛するとき

僕は僕の名前を忘れられる

 

君が僕の名前を呼んでくれるたびに

僕は僕を愛してしまう

 

僕が望むことはひとつ

君が僕を忘れ去ること

 

名前のない愛を、ただ

雨のように君に降らせたい

 

今まで僕は僕だったので

君を愛するポーズで僕を愛していた

 

いつか君を心の底から愛せるとき

それは僕が僕でない全てになるとき

 

僕が世界になって、永遠になって

どこからともなく君を愛したい

 

君はそれに気づかないまま

君のまま救われてほしい

 

君が僕の名前を呼ばなくてすむまで

僕は海王星で君の手紙を繰り返し読む

 

便箋のかどで切った指の傷口から

僕は永遠になる

 

きっと君がいなくなるとき

僕は差出人のない手紙を書こう

 

それを読んで君は首を傾げるだろう

僕はその一瞬の中に永遠に広がる

 

君が省みない一点に

僕は僕を残して

 

そのまま

消えてしまいたい

蕾のまま

毒を吸い咲いた花は

棘を誇る

 

わたしの棘は

わたしの維管束を

刺す

 

太陽は

日陰にわたしがいることを

許してくれない

 

日陰や

コンクリートの隙間に

育つ彼らは

きっとわたしを殺したい

 

彼らがわたしを殺せるなら

どんなに良かっただろう?

 

春も近づき

わたしという花を

開かねばならない

 

このまま、

 

蕾のまま地に落ちて

分解されるなら

如何ほど幸せだろうか